
1582年6月2日、京都
湿り気を帯びた夜気が、天下統一を目前にした織田信長の夢を包み込んでいた。
四方を炎が舐め尽くし、轟々と燃え盛る本能寺の伽藍。
その中心で、信長は自らに刃を立てた。
実行犯は、織田軍団きっての知将ーー
明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)
しかし、歴史の教科書が語る怨恨や野望という二文字で、この未曾有のクーデターを片付けてしまってよいのだろうか。
光秀という男は、主君を殺せば自らも破滅することを理解できないほど愚かではなかったはずだ。
四百余年の時を超え、現代の歴史家たちを翻弄し続ける本能寺の変。
その裏側に隠された、美しくも残酷な真実の断片を、今、手繰り寄せてみよう。

積年の怨恨か、凍てつく恐怖か…
一般的に知られる説は、信長から受けた凄惨なパワハラである。
- 饗応役の解任:徳川家康をもてなす席で膳の不備を理由に信長から足蹴にされた。
- 領土の没収:丹波・近江という住み慣れた地を取り上げられ、まだ切り取ってもいない山陰の攻略を命じられた。
だが冷静に考えてほしい。
光秀はエリートだ。信長という男の峻烈な気性を誰よりも熟知していた。
それだけの理由で、すべてを投げ打つだろうか。
実は、光秀が抱いていたのは怒りではなく、底知れぬ恐怖だったのではないかという説が近年有力視されている。
信長は、用済みと判断した宿老の佐久間信盛らを、容赦なく追放している。
光秀は、次に自分が切り捨てられる番であることを、その鋭敏すぎる知性で察知してしまったのかもしれない。
明日は我が身
その強迫観念が、光秀を狂気へと、あるいは正当防衛という名の反逆へと駆り立てたのだろうか。

室町幕府の亡霊と義
光秀は、信長とは決定的に異なる価値観を持っていた。
それは室町幕府への忠誠、あるいは古き良き秩序への執着だ。
信長が足利義昭を追放し、朝廷さえも自らの下に置こうとした時、光秀の胸中には何が去来したのか。
光秀は教養人であり、有職故実に通じた保守主義者だった。
信長が目指した中世の完全なる破壊は、光秀にとっては神仏を恐れぬ暴挙に映ったに違いない。
近年発見された石谷家文書によれば、光秀は四国の長宗我部元親と信長との間に立ち、必死に外交交渉を続けていた。
しかし、信長はそれを反故にし、四国征伐を決定する。
これは光秀にとって、自らのメンツを潰されただけでなく、信長はもはや制御不能の怪物になったと確信させる決定打となった。
光秀は、自らが守るべき義のために、鬼を討つ覚悟を決めたのだ。

闇に蠢く「黒幕」の影
光秀一人の犯行にしては、あまりにも手際が良すぎ、そしてあまりにも後始末が杜撰である。
ここに、歴史のロマンを掻き立てる黒幕説が浮上する。
- 朝廷黒幕説:暦の改変や自らを神格化しようとする信長を危惧した朝廷が光秀に密勅を下した。
- 足利義昭説:備後に逃れていた元将軍が幕府再興を条件に光秀を唆した。
- イエズス会説:日本の支配を狙う宣教師たちが制御不能になった信長を排除し、より御しやすい光秀を担ごうとした。
光秀は、自分一人の野望ではなく、誰かから託された大義名分を信じていたのではないか。
本能寺の変の直後、彼が必死に諸大名へ送った書状の数々は、まるで約束された援軍を待っているかのような、悲痛な叫びにも見える。

光秀が最期に見た月
「三日天下」と嘲笑われる光秀の最期は、山崎の戦いでの敗走。
そして、落ち武者狩りの手にかかるという、知将らしからぬ幕切れだった。
しかし、想像してみてほしい。
本能寺の炎を眺める光秀の瞳に、絶望の色はあっただろうか。
あるいは、苛烈な時代を終わらせるための供物として、自分自身の命さえも計算に入れていたのではないか。
光秀が遺したとされる辞世の句には、こうある。
順逆無二門 大道徹心源(じゅんぎゃく にもん に なし だいどう しんげんに てっす)
順境も逆境も、実は二つの道ではない。
真理はただ一つの源に繋がっているのだ。
裏切り者として名を残すことも、天下を失うことも、彼にとってはすでに道の途中に過ぎなかったのかもしれない。

筆者のひとりごと
歴史を俯瞰すると、光秀ほど誤解されている男はいません。
彼は単なる裏切り者ではなく、あまりにも繊細で、あまりにも生真面目だったがゆえに、信長という強烈な光に焼き尽くされてしまった夜の月のような存在に思えます。
もし、本能寺の変が起きなければ。
日本はもっと早くに近代化していたかもしれませんが、同時に日本人の美徳とする奥ゆかしさや秩序は、信長によって完全に粉砕されていたかもしれません。
光秀が守りたかったものは、案外、現代の私たちが大切にしている平穏そのものだったのではないでしょうか。
信長が破壊者なら、光秀は守護者になりたかった。
そのギャップが、あの夜、本能寺に火を放った。
そう考えると、光秀の流した涙が見えてくるような気がするのです。

