
夜の静寂を切り裂く、足音と話し声。
誰もいないはずの大広間に漂う、説明のつかない異様な気配——。
これは、シンガーソングライター・円広志氏がかつて作曲の仕事で訪れた東京・東村山で体験した、あまりにも恐ろしい実話である。
偶然見つけた破格の格安旅館。
一見すると旅の救世主に思えたその場所は、足を踏み入れてはならない「異界」への入り口だったのかもしれない。
円氏を襲った一夜の怪異と、その裏に隠された戦慄の真相に迫る。
どこも満室の街で、唯一あいていた「端っこの旅館」
その日、円広志氏は悩んでいた。
作曲という孤独で繊細な作業に集中するため、東京の東村山に長期滞在する計画を立てていた時のことだ。
目的は、10日間にわたる缶詰状態での楽曲制作。
集中できる環境を求め、東村山周辺の宿泊施設を何軒も探し回った。
しかし、どういうわけか、どのホテルも旅館も「満室」の札が掲げられており、一向に宿が決まらない。
諦めかけたその時、街の端にひっそりと佇む一軒の古びた旅館が目に留まった。
ここなら、もしかしたら……
淡い期待を抱いて尋ねてみると、驚くべき答えが返ってきた。
なんと、館内には一人も宿泊客がいないというのだ。
街中の宿が埋まっている中で、なぜこの一軒だけが完全に空いているのか。
不思議に思いつつも、締め切りに追われていた円氏にとっては願ってもない幸運だった。
案内された条件は実に破格だった。
- 宿泊期間:10日間の予約
- 宿泊料金:1泊わずか1,700円(素泊まり・食事なし)
東京の宿泊料としては考えられないほどの格安料金。
食事はつかないものの、集中して作業をしたい円氏にとっては十分すぎる条件だった。
ありがたい、これで仕事に没頭できる——
そう胸を撫で下ろし、円氏は案内された2階へと足を進めた。

80畳の大広間と、静まり返る木造の廊下
重い荷物を抱えてギシギシと鳴る階段を上がり、2階へ至ると、そこには独特の構造が広がっていた。
目の前には、およそ80畳はあろうかという広大な宴会場(大広間)。
そしてその脇に、小さな客室がいくつも並んでいた。
昔ながらの木造旅館特有の、どこかカビくさく、冷やりとした空気が肌を刺す。
円氏は指定された小さな部屋に入り、静かに襖を閉めた。
カバンから手際よく取り出したのは、以下の作曲セットだ。
- テープレコーダー
- 愛用のギター
- 五線譜と筆記用具
部屋の明かりをつけ、畳の上に腰を下ろす。
ポロンとギターの弦を鳴らすと、木造の建物内に澄んだ音が響き渡った。
他には誰もいない空間。
静寂そのものが自分を包み込んでいるような、理想的な集中環境だった。
メロディを紡ぎ、譜面に書き留め、テープレコーダーに録音する。
作業に没頭するあまり、円氏は時間の経過すら忘れていた。
気づけば、時計の針は夜の9時を回っていた。
暗闇の大広間から聞こえる大勢の足音
ふと集中が切れ、ギターを置いた時だった。
館内はすでに静まり返っている。
客が一人もいないため、旅館の従業員たちも夜には全員自宅へ帰ってしまうシステムになっていた。
つまり、この広い木造建築の中にいるのは、世界でただ一人、円広志氏だけのはずだった。
——トントントン、サッサッサッ……。
静寂を破り、不意に音が聞こえてきた。
音の発生源は、自分の部屋のすぐ目と鼻の先にある「80畳の大広間」だ。

それは、あきらかに大勢の人間がワーワーと歩き回っているような足音だった。
一人や二人ではない。
まるで何十人もの人々が集まり、ガヤガヤと行き交っているかのような気配。
……おかしい。
誰もいないはずなのに。
ぞくっとした寒気が背筋を走る。
円氏は意を決し、自室の襖をそっと開けて大広間を覗き込んだ。
しかし——そこにあったのは漆黒の闇だけだった。
電気は消えており、人影などどこにもない。しんと静まり返った暗闇が広がっているだけだ。
気のせいか……
長時間の作業で疲れているのかもしれない。
自分に言い聞かせるように納得させ、円氏は再び襖を閉めた。
そして心を落ち着かせるため、再びギターを手に取り、弦に手をかけた。
増幅する怪異…話し声と、窓の外に広がっていた「光景」
ポロローン——。
ギターの音色を響かせた、その直後だった。
「……あいつ、何やってんだ?」 「……聞こえるぞ……」
先ほど以上の明確さで、大広間から音が押し寄せてきた。
今度は足音だけではない。
大勢の人間が何やらひそひそと蠢き、話し合っているような地鳴りのような話し声が聞こえてきたのだ。
気のせいなどでは断じてない。
壁一枚を隔てたすぐそこで、確かな気配が蠢いている。
これは……
ただごとじゃない。
何かがおかしい!
本能的な恐怖が円氏の全身を支配した。
冷や汗が噴き出し、心臓が鐘のように高鳴る。
居ても立ってもいられなくなった円氏は、部屋の外(大広間側)へ逃げることもできず、確認のために自室の窓のカーテンを引き、外の様子を見ようと窓を開けた。
うわっ……!!
絶句した。
そこは建物の2階である。
にもかかわらず、窓のすぐ目の前、闇の底に広がっていたのは——
どこまでも続く広大な「お墓」だった。

びっしりと立ち並ぶ墓石群。
夜の月光に照らされ、不気味に浮かび上がる影。
自分が泊まっていた部屋は、墓地に隣接……
いや、まるで墓場を見下ろすように建てられた場所だったのだ。
こんなところに一刻もいられるか!!
東村山の街で、なぜこの旅館だけがぽっかりと空いていたのか。
なぜ一泊1,700円という破格の値段だったのか。
すべての謎が、恐怖のパズルとなって一瞬で組み上がった。
ここは、生人間が足を踏み入れるべき宿ではなかったのだ。
決死の脱出:闇の大広間を抜けて
10日間の滞在予定など、一瞬で吹き飛んだ。
円氏は半狂乱になりながら、広げたばかりのギター、テープレコーダー、譜面を猛スピードでカバンへ突っ込んだ。
帰る……
今すぐ自宅へ帰る!!
荷物をまとめ上げた円氏の前に、最後にして最大の試練が立ちはだかった。
部屋から脱出して階下へ降りるためには、どうしても、あの「見えない大勢の何者か」が気配を潜めている80畳の大広間を横切らなければならないのだ。

部屋の襖一枚を隔てた向こう側では、相変わらず不穏な足音と気配が渦巻いている。
あそこへ足を踏み入れなければ、外へ逃げることはできない。
ゴクリと唾を飲み込み、手垢のついた取っ手に手をかける。
頼むから、誰もいませんように……!
円氏は意を決して襖を勢いよく開け、暗黒の大広間へと飛び出した。
背後から迫る視線と、耳元で囁くような空気の振動を感じながら、一歩、また一歩と暗闇の畳を踏みしめる。生きた心地がしなかった。
人生で最も長く感じられた数秒間。
大広間を駆け抜け、階段を転げるように駆け下りると、夜の東村山の街へと飛び出した。
冷たい夜風が頬を打った瞬間、円氏はようやく生きた心地を取り戻したという。
格安の宿に隠された、怪異の宴。
円広志氏が体験したこの出来事は、単なる都市伝説や怪談ではない。
今も東村山のどこかに、あの見えない宿泊客たちが集う宴会場が、静かに佇んでいるのかもしれない……。

筆者のひとりごと
1泊1,700円という破格の値段につられて泊まった宿が、実はあちらの世界の人々の溜まり場だった……
なんて、想像しただけで鳥肌が立ちますね。
東村山で他の宿がすべて満室だった理由も、もしかすると地元の人が、あの旅館だけは危ないと知っていて避けていたからでしょうか?
窓を開けたら一面のお墓だったというオチも、怪談の教科書のような完璧な恐怖展開です。
円広志さんが無事に大広間を走り抜けて脱出できて、本当に良かったと思わずにはいられません。
皆さんも、街中であまりにも安すぎる空き宿を見つけたときは、少しだけ警戒したほうがいいかもしれませんよ……。

