
一人暮らしを始めるにあたって、物件選びは最もワクワクするプロセスのひとつだ。
日当たり、駅からの距離、家賃、そして周辺環境。妥協できる点とできない点を天秤にかけ、ようやく見つけたお気に入りの部屋。
古さは少しあるものの、レトロな雰囲気が気に入って契約したその古いマンションは、静かな住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。
管理状態も悪くなく、隣人の生活音もほとんど聞こえない。
これなら落ち着いて生活できそうだ。
引っ越し初日、荷解きを終えた女は、心地よい疲労感の中でそう思った。
しかし、その平穏が「錯覚」だったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
1. 夜の静寂を切り裂く「コツン」という音
異変が始まったのは、引っ越して丸一週間が経った頃の夜だった。
日付変わり、時計の針がちょうど午前1時を指したその瞬間。
シーンと静まり返った自室の空間に、不意にその音が響いた。
――コツン。
天井のずっと上の方から、硬質なものが床に落ちたような小さな音が聞こえた。
女は本から視線を外し、ぼんやりと天井を見上げた。
音の感じからして、ビー玉のような球体がフローリングの上に転がり落ちた音に非常によく似ている。
……上の階、まだ起きてるのか?
少し気になったが、現代の集合住宅ではよくある生活音の範疇だろうと、女はすぐに意識を本へと戻し、その夜はその音を気に留めなかった。
しかし、それが毎晩のルーティンになるにつれて、不快感は徐々に恐怖へと変わっていかなかった。
なぜなら、その音は決まって深夜0時を過ぎた途端に発生し、まったく同じパターンを繰り返すからだ。
まず、一つの「コツン」という落下音。
その直後、ころころころ……
と小さな球体が転がるような軽やかな音が、一定のリズムで数秒間響く。
そして、最後にまた「コツン」と何かにぶつかってぴたりと止まる。
まるで、見えない誰かが毎夜決まった時間に、一人でビー玉遊びをしているかのように。
上の階のガキ、夜中に何やってんだよ……。
親は注意しないのか?
連日の寝不足もあり、イライラがピークに達した男は、ある日の昼間、管理人室を訪れることにした。

2. 管理人の表情が凍りついた瞬間
マンションの1階にある管理事務所のドアを叩くと、中から白髪交じりの管理人が出てきた。
女はこれまでの経緯を説明し、少し困ったような口調で苦情を申し立てた。
あの、302号室の上の階なんですけど……
夜中になると毎晩のようにビー玉を転がすような音が聞こえてきて、正直少し眠れないんです。
できれば、夜間だけでも静かにするよう、上の住人の方に注意していただけませんか?
管理人は、メモ帳に何かを書き留めるでもなく、ピタリと動きを止めた。
そして、じっと男の顔を見据え、気まずそうに、しかしはっきりと言った。
お客様、おっしゃりたい気持ちは分かりますが……
それは無理な相談です。
は? 無理ってどういうことですか?
迷惑を被っているのはこっちなんですが…
女が少し語気を強めると、管理人は小さく溜息をつき、おもむろに古い台帳を取り出してページをめくった。
そして、信じられない言葉を口にした。
お客様がお住まいの302号室の、その上の階……
402号室ですが、現在、入居者はおりませんよ。
……は?
その部屋は、もう半年以上空室です。
誰も住んでいないんですから、音がするはずがないんですよ。
頭の中で、何かが音を立ててショートした。
誰もいない。
上が空室だというのなら、毎夜頭の上で響いていたビー玉の音はいったい何なのだろうか。
い、いや、そんなはずは!
毎日確実に音が聞こえているんです!
子供が走り回るような足音こそしませんけど、ビー玉が転がる音がはっきりと……!
管理人は気の毒そうな、それでいてどこか怯えたような目を男に向けたまま、静かに首を横に振った。
私どもも、以前の入居者から何度か同じ苦情を受けたことがあります。
ですが、上の部屋を確認しても、床には傷一つなく、もちろん誰もいません。
……これ以上は、私どもにも何とも……
それ以上、管理人は何も語ろうとしなかった。

3. 天井の引っかき音
その日の夜、自室のベッドに横たわりながら、女は恐怖で心臓をバクバク言わせいていた。
空室のはずだという事実が、それまでただの迷惑な騒音だったものを、おぞましい怪異へと変えてしまう。
耳を澄ますと、いつもの時間が近づいていた。
午前1時。
――コツン。
天井から、あの音が聞こえた。
恐怖で全身の毛穴が逆立ち、布団を頭までかぶって耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、女の身体は金縛りにあったように動かない。
ころころころころ……。
ビー玉が、天井の上を転がっていく。
しかも、今夜の音はいつになく鮮明で、まるで自分のすぐ真上の天井板一枚を隔てたところで転がっているかのように近い。
やめろ……頼むから、もうやめてくれ……
恐怖の限界を超え、狂気に飲まれそうになった瞬間、女の中で何かがプツリと切れた。
ふざけるな……!
女は勢いよくベッドから跳ね起き、部屋の隅に立てかけてあった掃除用の硬い木製のほうきを掴み取ると、怒りに任せて、その柄の先端で天井めがけて力任せに突き上げた。
――ドンッ!!
乾いた衝撃音が、静まり返った部屋に響き渡る。
自分が何をしているのかも分からなかった。
ただ、この得体の知れない恐怖に対して、何かで反撃しなければ気が狂いそうだったのだ。
ドン、ドン、と数回、天井を強く突いた。
その瞬間、ぴたりとビー玉の転がる音が止まった。
……はぁ、はぁ……
女は荒い息を整えながら、自分の突き上げた天井を見上げた。
勝った、と思ったのか。
静寂が戻った部屋で、男は冷や汗を拭った。
しかし、本当の恐怖は、その直後に始まった。
――カリッ。
音が止んだ天井の真上から、今度はまったく別の音が聞こえてきた。
それは、金属か鋭い爪のようなもので、コンクリートの天井の裏側を、ガリガリと執拗に引っかくような音だった。
カリッ、カリッ、カリカリカリカリ……ッ!!
尋常ではないスピード。
しかも、その引っかく音は、部屋の端から端へと移動するのではない。
ガリガリガリガリ……!
と音を立てながら、天井のその一点から、男の頭の真上へと、ものすごい勢いで近づいてくる。
音の正体が何かが、今、真上の天井のすぐ裏側で、こちらを覗き込もうとしている。
いや、天井を突き破って、こちら側に降りてこようとしているのだ。
ひっ……!
悲鳴すら喉の奥で押し潰され、女はその場にへたり込んだ。
頭の真上の天井が、微かに「ミシミシ」と重みでたわむような気がした。
見えない何かが、床(天井)のこちら側に手をかけ、這い蹲って自分を見下ろしている姿が生々しく脳裏に浮かぶ。
もう、この部屋にはいられない。
女は狂ったように立ち上がり、財布とスマートフォンだけを掴むと、鍵もかけずに玄関のドアをブチ破るように開け、夜の街へと飛び出した。
二度と、あの部屋に戻ることはなかった。
敷金も家具もすべて放置したまま、女は実家へと逃げ帰ったという。
しかし、今でも時折、夜中にふと目を覚ますと、自分の枕元の天井から、あの音が聞こえる気がしてならない。
――コツン。ころころころ……。

筆者のひとりごと
集合住宅における上の階の足音や謎の物音は、しばしば近隣トラブルの火種となります。
建築音響学の観点から言えば、建物の構造上の問題、コンクリートの不連続な振動伝播や、いわゆる個体伝音によって、実際とはまったく異なる場所で発生した音が遠くの部屋まで響くことが珍しくありません。
水回りの配管を通って、上の階の音がまるで自分の真上で鳴っているように聞こえることもあるのです。
しかし――
どれほど科学的な理屈を並べ立てたところで、誰もいないはずの最上階や空室の部屋から聞こえる音が説明できるわけではありません。
私たちが住んでいるコンクリートの箱は、本当に人間だけの空間でしょうか。
もしかしたら、私たちが引っ越してくる前からそこに住んでいた別の何かと、壁一枚を隔てて共生しているだけなのかもしれません。
夜、ふと天井から聞こえる小さな物音。
それをただの建物のきしみと笑い飛ばせるのは、本当にあなたの頭の上には、誰もいないと言い切れる時だけです。


