
深夜のドライブは、日常から切り離された独特の開放感と、言い知れない孤独感を同時に運んでくる。
対向車もまばらなアスファルトの上、ヘッドライトが照らし出すのは、白線とただ闇に溶けていくガードレールだけ。
音楽を小さくかけ、ただ前を向いてペダルを踏む時間は、忙しい日々から逃避するには格好の手段だった。
しかし、その静寂と安全が音を立てて崩れ去る瞬間は、あまりにも唐突に訪れる。
これは、都心から地方へと延びる深夜の国道で、ある男が実際に体験した、身の毛もよだつ恐怖の記録である。
1. 街灯のないカーブ、そこにいるはずのない影
日付が変わってからすでに数時間が経過していた。
男は仕事のトラブル処理で帰社が遅くなり、さらに翌日の直行に備えて、深夜の国道を自分の車で一人走らせていた。
深夜のこの区間は、山あいを縫うように走るルートであり、民家はまばらで、街灯すら数キロおきにぽツンとある程度だ。
対向車はここ30分ほど一台もすれ違っていない。
聞こえるのは、低く唸るエンジン音と、タイヤが乾いたアスファルトを捉える単調なノイズだけだった。
視界の端、前方の緩やかな右カーブに差し掛かったときだった。
ハイビームに切り替えたヘッドライトの光の先に、ふと黒い影が浮かび上がった。
……ん?
ガードレールの内側、つまり歩道すらない路側帯の白線ギリギリを、とぼとぼと歩く人影があった。
いや、一人ではない。
大小合わせて、3つの人影が並んで歩いている。
こんな山奥の、街灯もない真夜中に、人が歩いているだけでも異様だ。
男はアクセルから足を離し、ブレーキに足を軽く乗せながら慎重に速度を落とした。
近づくにつれて、ヘッドライトの光がその正体を鮮明に暴き出す。
それは、父親、母親、そして小さな子どもと思われる3人家族だった。
父親らしき男はよれよれのスーツを着てうなだれ、母親らしき女は地味な色のワンピース姿。
そしてその真ん中で、幼稚園児くらいの小さな子どもが、両親と手をつなぎながらトボトボと歩いている。
しかし、その足取りはあまりにも不自然だった。
まるで地面に足がめり込んでいるかのように重々しく、そして何より、誰も一言も話を発していない。
ただ、等間隔で、機械人形のように足を動かしていた。
こんな時間に、家族揃ってどこを歩いているんだ……?
夜逃げか、あるいは心中でもしようとしているのか。
不気味な光景に背筋がゾクリと冷えたが、関わり合いになりたくないという心理が働き、男はクラクションを鳴らすこともせず、ただ静かに、車線を少し左に避けながらその家族を追い越そうとした。
車体がちょうどその家族の真横に並んだ、その瞬間だった。

2. 窓を叩く「コン、コン」
――コン、コン。
静まり返った車内に、乾いた硬質な音が響いた。
心臓が激しく跳ね上がり、男は反射的に助手席の方へと視線を向けた。
声が出なかった。
喉の奥がキュッと締め付けられ、冷たい汗が一気に噴き出す。
追い越そうとしていた「母親」が、車とほぼ同じ速度で並走しながら、助手席の窓ガラスに顔をぴったりと貼り付けてこちらを覗き込んでいたのだ。

車は時速40キロほどで走っている。
歩いている人間が車と同じ速度で並走するなど、物理的にあり得ない。
それだけでも狂気的だったが、それ以上に目を奪われたのは、その顔だった。
顔の皮膚は、まるで何日も水に浸された溺死者のように青白く、ブヨブヨとただれていた。
目鼻立ちの輪郭はあるが、瞳孔の開ききった目は一切の瞬きをせず、焦点の合わない濁った白目をこちらに向けたまま、ぐにゃりと歪んだ口元で、笑っていた。
いや、笑っているのではない。
顎がありえない角度まで外れ、ただポカンと開いているだけのようにも見えた。
男はパニックに陥った。
頭の中で警報が鳴り響き、アクセルを踏め、早くここから離れろ!
と本能が叫ぶ。
男は震える手でシフトレバーを握りしめ、一気にアクセルを踏み込んだ。
轟音を立てて車が加速する。助手席の窓から、あのただれた顔が遠ざかっていく――
はずだった。
3. バックミラーに映る「追跡者」
しかし、恐怖はそれで終わりではなかった。
ただ事ではない気配に耐えかねて、男は無意識に頭上のバックミラーへと視線をやった。
ミラーに映し出された光景を見た瞬間、男はハンドルを取り落としそうになった。

離れていくはずの家族が、車を追いかけてきていた。
しかも、歩いているどころではない。
両親は四つんばいのような、まるで獣のような姿勢になり、信じられないほどの猛スピードでアスファルトを這いずりながら車を追いかけてきていたのだ。
その手足は異様なほどに長く引き延ばされ、道路の白線を引っかくようにして、ガリガリと凄まじい摩擦音を立てている。
さらに恐ろしいことに、その真ん中にいた小さな子どもは、両親に手を引かれているのではなく、首から上がない状態のまま、胴体だけが宙に浮いたような不安定な姿勢で、親の背中にしがみついて追いついてきていた。
来るな……! 来るなっ……!!
男は叫び声を上げながら、アクセルを床まで踏み抜いた。
エンジンが悲鳴を上げ、車体が激しく揺れる。
前方には、まだ暗い山道がどこまでも続いているように思えた。
そのとき、頭の片隅で、どこかで聞いたことのある不気味な言い伝えがフラッシュバックした。
――夜の山道や国道で、異様なものを見かけても、絶対に振り返ってはならない。
声をかけられても、鏡を見てはならない。見たら最後、彼らの仲間入りをさせられる。
バックミラーを見るな。
横を見るな。
ただ前だけを見ろ。
男は涙を流しながら、視線をフロントガラスの一点に固定し、狂ったようにハンドルを握りしめ続けた。
後ろから聞こえる、ガリガリ、シャリシャリという爪を引きずるような音が、車の走行音をかき消すようにどこまでも追いかけてくる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
体感では何時間にも思えたが、実際には数分だったかもしれない。
突然、前方の視界がパッと明るくなった。
街灯が連なり、コンビニの看板や自動販売機の明かりが見える。
ようやく、人のいる市街地へと抜け出したのだ。
怖ろしくなってバックミラーを恐る恐る確認したが、そこには誰もいなかった。
ただ、冷たい夜風が吹き抜ける、静まり返った道路があるだけだった。
男はそのまま近くのコンビニの駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切ると、しばらくの間、ハンドルに突っ伏したまま震えが止まらなかったという。
二度と、あの夜の国道を通ることはできなくなった。
しかし、今でも夜、自分の車の窓ガラスを「コン、コン」と叩く音がする気がして、彼は眠れない夜を過ごしている。

筆者のひとりごと
夜間のドライブや暗闇での恐怖体験、あるいは極度のストレスや疲労が重なったとき、人間は時として幻覚や錯覚を見るものだ――
と、医学の教科書では説明されます。
これを専門用語では、睡眠不足や自律神経の乱れによる一過性の知覚異常、あるいは入眠時幻覚などと片付けることも可能です。
しかし、生物学的に考えて、複数の人間が全く同じ恐怖の幻影を共有することはありません。
今回の体験が果たして脳のバグだったのか、それともこの世の理から外れた何かだったのか。
一つだけ言えるのは、人間の脳や精神は、私たちが想像しているよりもはるかに脆弱で、一歩足を踏み外せば、あっという間にあちら側の世界へ引きずり込まれてしまう境界線の上に、私たちは生きているということです。
深夜の単独運転、特に疲労困憊のときほど、どうかお気をつけください。
あなたの後ろをついてきているのは、本当にただの影でしょうか?


