道元が説いた「只管打坐」ひたすら坐るという境地

忙しない現代社会において、何もしないことは最大の禁忌きんきのように扱われます。

しかし、鎌倉時代に道元禅師が日本に伝えた曹洞宗の根幹、只管打坐(しかんたざ)は、その究極の逆説を提示します。

只管しかんとは、ひたすら、ただ一筋に。

打坐たざとは、坐禅をすること。

文字通りとらえればただひたすら坐ることですが、この単純な行為の裏には、私たちが忘れかけている生の実感が隠されています。

​「そのものになりきる」という没入の極致とは

​只管打坐を語る上で欠かせないのが、ひたすらそのものになりきるという感覚です。

​通常、私たちは坐禅をして心を落ち着かせよう、悟りを開いて楽になろうといった目的を持って行動します。

しかし、道元禅師の教えは異なります。

坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐っているその姿そのものが悟りのあらわれであると説きました。

これを修証一等しゅしょういっとうと呼びます。

​そのものになりきるとは、以下の3つの段階を溶け合わせる作業です。

  1. 分別の停止 上手く坐れているか、足が痛い、あと何分かといった雑念(分別)を、追いかけもせず、否定もせず、ただ放っておく。
  2. 身心脱落しんじんだつらく 私という自我の枠組みを一度手放し、ただ呼吸と姿勢に身を任せる。
  3. 純粋な行為への回帰 坐っている私と坐るという行為の間に隙間がなくなったとき、人はその瞬間と完全に一致します。これがそのものになりきる状態です。

現代における「只管」の価値

​私たちは常にタイパ(タイムパフォーマンス)を求め、1分の空白さえもスマートフォンで埋めようとします。

何かをしていないと不安になるのは、自分の価値を生産性でしか測れなくなっているからです。

​しかし、只管打坐の世界では、役に立つかどうかという物差しを捨て去ります。

​ただ坐り、ただ呼吸する。

そこには、過去への後悔も未来への不安も入り込む余地はありません。

ただ今、ここに存在する自分の肉体と、周囲の空気、静寂だけが残ります。

この何にも捕らわれない状態こそが、現代人にとって最も高貴で贅沢ぜいたくな休息となるのです。

​日常の中の「只管」を見つける

​もちろん、私たちは毎日僧侶のように壁に向かって坐り続けることはできません。

しかし、只管の精神は日常生活にも応用できます。

  • 只管清掃 汚れを落とそうと躍起になるのではなく、ただ雑巾を動かす手に集中する。
  • 只管歩行 目的地に急ぐのではなく、地面を踏みしめる足裏の感覚になりきる。
  • 只管傾聴 アドバイスをしようと考えず、ただ相手の言葉が響くままに受け止める。

​~のためにという条件付きの生から離れ、行為そのものと一体化するとき、私たちは世界の鮮やかさを再発見します。

ただ、坐るということ

​只管打坐は、特別な能力を身につけるための修行ではありません。

むしろ、余計な装飾や執着を一枚ずつ脱ぎ捨て、剥き出しの自分に戻るプロセスです。

​ただ、ひたすら坐る。

​その静寂の中で、あなたは自分自身が宇宙の一部であり、すでに満たされていることに気づくかもしれません。

何もしないことの豊かさを、一度味わってみてはいかがでしょうか。

​筆者のひとりごと

​何かを成し遂げなければという強迫観念に追われる日々の中で、この只管打坐の考え方は、私にとって一服の清涼剤のような存在です。

効率を求める世界から一歩降りて、ただお湯を沸かす音に耳を澄ませる。

そんな意味のない時間こそが、実は私たちの心を最も深く癒やしてくれるのかもしれません。​

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