​なぜ「精神鑑定」は必要なのか!?奪われた命と揺らぐ司法への不信感

​凄惨な事件が報じられるたび、テロップに流れる「精神鑑定を実施」という一文。

その言葉を目にしたとき、私たちの胸を去来するのは、やり場のない怒りと激しい違和感だ

​「やったことは事実ではないか

病気だと言えば、奪われた命の重さは免責されるのか

​被害者の無念、遺族の絶望を思えば、「精神鑑定」という手続きが、あたかも加害者が罪から逃れるための「隠れみの」であるかのように映る。

そのいきどおりは、社会正義を願う人間として極めて健全な反応であると言える。

​しかし、感情の激流を一度抑え、私たちが暮らす現代社会の「法の設計図」を俯瞰したとき、そこには残酷なまでのジレンマが横たわっている。

法が突きつける「責任能力」という冷徹な基準

​日本の刑法第39条には、次のような規定がある。

心神喪失者の行為は、罰しない」「心神耗弱(こうじゃく)者の行為は、その刑を減軽する」。

​この条文の根底にあるのは「責任なければ刑罰なし」という近代法の基本原則だ。

刑罰とは、本来「善悪の判断がつき、自らの行動を制御できる主体」に対して、その誤った選択を責めるために存在する。

もし、本人にその判断能力が全く欠如していたならば、それは「罰する対象」ではなく「治療や隔離の対象」であると、法は定義しているのだ。

​しかし、この論理的な整合性が、遺族や社会が抱く「応報感情」と激しく衝突するのは避けられない。

私たちが抱く「不公平感」の正体

​なぜ、精神鑑定という言葉にこれほどまでの「モヤモヤ」を感じるのか。

その理由は、鑑定のプロセスそのものが「被害者不在」の議論に見えるからに他ならない。

  • 「逃げ得」への根強い不信感: 狡猾な演技や虚偽の供述によって、罪を逃れようとしているのではないか。その疑念は、鑑定密室で行われる不透明さと相まって、司法への不信を増幅させる。
  • 人権の不均衡: 加害者の「病気という人権」が手厚く保護される一方で、命を奪われた被害者や、一生消えない傷を負った遺族の人権や感情が、置き去りにされているのではないかという不条理。
  • 再犯への予見しがたい恐怖: 「病気だから」という理由で入院措置となり、数年後に社会へ戻される。そのとき、再び悲劇が繰り返されないという保証を、誰が持てるのか。

精神鑑定=無罪放免ではない。しかし、その「質」が問われている

​誤解されやすいが、精神鑑定で責任能力が否定されたとしても、それは「自由の身」を意味するわけではない。

​2005年に施行された「医療観察法」に基づき、重大な罪を犯した者は、裁判所の決定によって強制的な入院や通院、そして厳格な監督下に置かれることになる。

複数の専門医による厳重なチェック体制が敷かれ、単なる「演技」であれば即座に見破られる仕組みであるとされている

​だが、それでも議論は止まない。

なぜなら、人々の怒りは「制度の有無」ではなく、「奪われたものに対する対価としての正義」が果たされていないと感じるからだ。

この憤りを「健全な社会」への種にする

​「法律だから仕方ない」と、思考を停止させるべきではない。

精神鑑定に対する私たちの憤りや違和感は、現代の法律が、国民の感覚からいかに乖離かいりしているかを映し出す鏡だ。

​匿名報道によって守られる容疑者と、実名やプライバシーをさらされる被害者。

この不均衡を是正し、被害者遺族への真のケアを法体系の真ん中に置く議論を、私たちは止めてはならない。

​「に落ちない」というその怒りは、社会がより正しく、より誠実であるための道標である

正義とは何か、責任とは何か。

その問いを抱え続けることこそが、現代社会に生きる私たちの「知的な責任」なのかもしれない。

筆者のひとりごと

​精神鑑定は、犯行時の責任能力を測るものですが、容疑者の実名が出ない「匿名報道」などは人権・差別防止という名目で行われます。

しかし、被害者にも当然、守られるべき人権と尊厳があります。

加害者の内面ばかりがフォーカスされる現在の司法や報道のあり方は、議論の余地が大いにあると感じます。

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