震える指先が奏でた最後の「月光」ある特攻隊員と小学校のピアノ

​その旋律は、あまりにも静かで、あまりにも絶望的に美しかったといいます。

​昭和20年。

敗戦の色が濃くなる日本で、若者たちは「生きて帰らぬ」ことを前提とした特攻作戦に身を投じていました。

今回ご紹介するのは、死を目前に控えた二人の若き特攻隊員が、ある小学校のピアノに託した、魂の絶唱ともいえる実話です。

​閉ざされた音楽室の扉を叩いた、二人の青年

​佐賀県鳥栖市にある、鳥栖小学校。

ある日の夕暮れ時、国民学校と呼ばれていたその学び舎に、二人の青年将校が姿を現しました。

​彼らは、陸軍の目達原(めたばる)飛行場からやってきた特攻隊員でした。

数日後には沖縄の空へ散ることが決まっていた彼らには、どうしても叶えたい最期の願いがあったのです。

学校のピアノを、一度だけでいい、弾かせてもらえませんか。

​応対した教師は、彼らの眼差しに宿る、静かですが抗いようのない熱量に圧倒されました。

戦時中、音楽は軟弱なものとされがちでしたが、その教師は何も言わずに、彼らを音楽室へと案内したのです。

埃をかぶったピアノと、ベートーヴェンの「月光」

​音楽室に置かれていたのは、ドイツ製の古いグランドピアノ。

戦禍の中で調律もままならず、鍵盤は重く、埃をかぶっていました。

​一人の隊員、上野少尉が椅子に座りました。彼はかつて、音楽を志した学生でした。

彼が選んだ曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』。

​静寂に包まれた校舎に、最初の和音が響きました。

それは、これから死に行く若者が奏でているとは信じがたいほど、優しく、慈しみに満ちた音色でした。

  • ​第一楽章のすすり泣くような三連符。
  • ​愛する人々への別れ。
  • ​奪われた未来への慟哭。

​音楽室の外では、偶然居合わせた子どもたちや教師たちが、息を潜めてその旋律に聞き入っていました。

誰も声を出すことはできません。ただ、ピアノの音だけが、夕闇の迫る廊下に染み渡っていきました。

​「ありがとうございました」— 遺された音の記憶

​演奏が終わったあと、上野少尉は鍵盤をそっとなでると、深々と一礼しました。

これで、思い残すことはありません。

​その数日後、彼は予定通り知覧へと向かい、南の海へと消えていきました。

彼が弾いた『月光』は、文字通り彼の白鳥の歌(絶筆)となったのです。

​戦後、このエピソードは『月光の夏』として映画化・小説化され、多くの日本人の涙を誘いました。

しかし、物語として消費するにはあまりにも重い事実が、そこには横たわっています。

彼らが本当に弾きたかったのは、死を美化する曲ではなく、ただの日常であり、愛する人と共に過ごす時間そのものだったはずです。

現代に語りかける、沈黙の鍵盤

​現在も、そのピアノはフッペル・ピアノとして保存されています。

鍵盤に触れれば、今でも音が鳴るかもしれません。

しかし、あの日、二十歳そこそこの青年が命を削って絞り出したあの『月光』を、再現できる者は誰もいないでしょう。

​私たちは、平和な時代の中で、自由に音楽を楽しみ、自由に未来を語ることができます。

しかし、その自由の土台の下には、音楽を愛しながらも、ピアノの蓋を閉じて戦地へと向かわなければならなかった若者たちの、深い悲しみと無念が埋もれていることを忘れてはなりません。

筆者のひとりごと

​この記事を書きながら、ずっと月光の第一楽章を流していました。

今の私たちが、もし明日死ぬと言われて、最後にピアノを弾きたいと思うでしょうか。

おそらく、恐怖で指が動かないのではないか、そう思わずにはいられません。

​上野少尉がどのような気持ちで鍵盤を叩いていたのか、それは本人にしか分かりません。

けれど、彼が最後に求めたのが武器ではなく楽器だったという事実に、人間の尊厳のすべてが詰まっているような気がします。

​高価なブランド品や贅沢な暮らしも素敵ですが、本当に価値があるのは好きな曲を、最後まで弾ける自由なのかもしれません。

平和という言葉が少しずつ軽くなっているような気がする昨今、このピアノの物語が、誰かの心に小さなくさびを打ち込んでくれることを願っています。

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